2014-06-13 第186回国会 参議院 北朝鮮による拉致問題等に関する特別委員会 第3号
当時、悲惨な状況の下で、寒さの中、栄養失調そして発疹チフスが発生する中で多くの人たちが亡くなっていきました。 日本人というのは私は優れたものだなと思いますのは、当時、平壌に暮らしていた、その龍山地域にいた人たちが、当時ですよ、こういうものを作っているんですよ。(資料提示)これ全部、龍山墓地に埋められた方々の日本人一人一人のお名前、二千四百二十一人、これが昭和二十一年の四月四日現在なんですよ。
当時、悲惨な状況の下で、寒さの中、栄養失調そして発疹チフスが発生する中で多くの人たちが亡くなっていきました。 日本人というのは私は優れたものだなと思いますのは、当時、平壌に暮らしていた、その龍山地域にいた人たちが、当時ですよ、こういうものを作っているんですよ。(資料提示)これ全部、龍山墓地に埋められた方々の日本人一人一人のお名前、二千四百二十一人、これが昭和二十一年の四月四日現在なんですよ。
○政府参考人(上田博三君) 注射器と注射針とが少し扱いが違っておりますけれども、昭和二十三年に痘瘡、ジフテリア、腸チフス、パラチフス、発疹チフス及びコレラの予防接種心得を、また昭和二十四年にツベルクリン反応検査心得及び結核予防接種心得を定め、それぞれの被接種者ごと、すなわち接種を受けられる方ごとに注射針の消毒を義務付けたところでございます。
○政府参考人(上田博三君) 昭和二十五年からツベルクリン反応検査及びBCGについて、注射を受ける方一人ごとに注射針を取り替えなければならないとし、昭和三十三年からは痘瘡、ジフテリア、腸チフス、パラチフス、発疹チフス及びコレラについて注射針は被接種者ごとに取り替えなければならないと指導したところでございます。
その大部分はもちろん病気でありまして、発疹チフス、栄養失調、TB。それらは、いずれにしましても、非常に悪い環境のもとで、非常に食料も乏しく、しかも酷寒の地で強制労働をさせられたということがその原因であることは明らかでございます。 したがいまして、私どもは、戦後処理問題の中でも、やはりソ連の抑留者に対する処遇問題はまず第一に取り上げてもらわなきゃならぬというふうに考えておりました。
栄養失調、TBあるいは発疹チフス等で倒れた者がその大部分であります。 そこで、我々は抑留者に対する補償を求めて運動を起こして、今日に至っているわけでございます。国内的には既に、銀杯、書状また一人十万円の慰労金を支給するという措置で、いわゆる慰藉事業というものは終わった形になっておりますけれども、なお幾つかの問題が残っているのであります。
そして、確かに我が国の厚生行政を振り返ってみますと、昭和十三年、いわゆる戦争体制へ国家の総力を挙げていくという時代に生まれたわけではありますけれども、戦後とにかく荒廃の中で大変国民生活が食べるに事欠く、また伝染病等も随分出まして、発疹チフス、コレラ等、今から考えたらちょっと想像もつかないような状況の中で厚生行政が出発いたしましたし、さらには日本の国の敗戦に伴って海外から軍人あるいは引揚者等、大変な状況
かって、DDTが終戦後これは無害である、使用してよろしいということになっておりまして、私なんか背中にいっぱい入れられたのでございますけれども、あれは発疹チフスに対してどうしてもやっぱりやらなくちゃいけない、こういうことでやられたのだと思うのでございますが、これが今では毒性があるということになっておるのでございますので、これは非常に進歩してよかったということでございますが、環境庁もそういう意味におきまして
○国務大臣(上田稔君) 先生のお言葉を返すようで大変申しわけございませんが、私もDDTにつきましては、今お話しのとおり、発疹チフスが原因でたしか使用されたと思うのでございます。
このときはもっと大変な発疹チフスの予防というふうな問題もあったんです。人体にもっとより大きな害を及ぼす、生命に危険を及ぼすような問題があったときの措置。安全だと言われましたけれども、それにしても、そういうものがそういう形の中で半ば強制的に使わせられた、そうですね。好んでかかったんでないんです。
その一部を読んで御紹介申し上げますと、「占領軍命令で厚生省・東大 終戦直後、十二人以上 関係者証言」とあって、その上に「受刑者使い人体実験 発疹チフスの感染研究」こういう大見出しで出ているわけです。
当時のものにつきましては予防研究所の年報というものがございまして、昭和二十二年に発疹チフスの発生の機序について連合軍最高司令部援助のもとに実験が進められたというような記事が年報にございます。
しかも、食糧事情も劣悪で、それによって栄養失調、肺結核、急性肺炎、赤痢、発疹チフス等の伝染病にかかり、死亡した人も多く、全体の約一〇%に及ぶ死亡率となっておるようでございますが、こうした悲惨な事態について政府はどのように受けとめていらっしゃるのでしょうか。
これらの患者は、主として栄養失調、肺結核、急性肺炎、伝染病、わけても赤痢・発疹チフス等で、私がいた第三分所でも、入所以来わずか三カ月半の間に百四十名の戦友が祖国に思いをはせながら不帰の人となりました。 抑留満三カ年、幾多の辛酸を経てようやく昭和二十三年十月十一日、ナホトカ港から高砂丸に乗船し、夢に見た祖国舞鶴港に着いたのが、同年十月十三日でありました。
第一に、予防接種法の対象疾病について、腸チフス、パラチフス、発疹チフス及びペストを削除するとともに、新たに麻疹、風疹、日本脳炎及び特に必要があると認められる疾病で政令で定めるものを加えることとしております。また、定期の予防接種を行う疾病及びその定期を政令で定めることとしております。
第一に、予防接種法の対象疾病について、腸チフス、パラチフス、発疹チフス及びペストを削除するとともに、新たに麻疹、風疹、日本脳炎及び特に必要があると認められる疾病で政令で定めるものを加えることとしております。また、定期の予防接種を行う疾病及びその定期を政令で定めるものとしております。
これを寄生的適応性の獲得ということで学問的には言っておるようですが、そういうようなことがこの人間の世界でもありましたように、たとえばこの発疹チフスとか、あるいはそのほかの伝染病が非常に局部的に発生をしていくということが起こってまいります。
そして、結局この方が亡くなった直接の原因は発疹チフスだったのですね。発疹チフスであったけれども、やはり被爆が原因であるということを裁判所がこの判決の中で出したわけです。この論拠になっているのは「死亡原因は発疹チフスとされた。しかしながら、義雄が死亡した真実の原因は原爆病に起因するものである。」
ただいま御指摘のとおり、第一点考えられますことは、私ども検疫伝染病と申しております御承知のペスト、コレラ、発疹チフス、そういうような従来国内にない伝染病が外国との交流によって発生する場合、どうやってそれらに対する措置をとったらいいか。これは御指摘のとおり検疫法に基づくわけでありますが、「外国軍用艦船等に関する検疫法特例」というのが昭和二十七年に出ております。
ペスト、コレラあるいは痘瘡、発疹チフス、回帰熱、黄熱というのが、国際的な衛生条約できめられた疾病でございます。そういう面につきましては、全部日本側でも入国者についてやっております。それからアメリカ軍につきましても、もちろんそういう疾病のあるかないかについては報告を求めておりますので、現在はございませんです。
特にペストであるとかコレラとか——まあ発疹チフスは、われわれ終戦の後に経験がありますからわかりますけれども、やはりペストとかコレラというものはそう見ていないのですね。ちょうど農薬が出た初期に、農薬に対する中毒がみんなわからなかったのですね。
この赤痢ワクチンは、現段階におきましては、他のコレラ・ワクチン、ペスト・ワクチンあるいは、発疹チフス・ワクチン、腸チフス・ワクチンと同じように、薬事法の適用を受ける段階にまで立ち至っていないものでございます。そういう意味で薬事法により処断ができないということを申し上げたわけでございます。
その結果、同年四月三日に、軍船を利用いたしまして第一船で七百十一名の引揚げが行われたのでありますが、島に発疹チフスが発生しているということが本土に伝わり、引揚げられては困るということになりましたので、一時引揚げを中止したのであります。
従来国内にあまりなかつた発疹チフス、あるいは痘瘡というような悪質の急性伝染病が、非常に蔓延をいたしまして、また結核、性病等も非常に蔓延いたしておりまして、当時の衛生状態が極度に混乱しておりましたので、従いまして、その対策に科学的な裏づけをするという意味から、その要請に基きまして、国立予防衛生研究所というものができ上つたのでございます。
摘要欄に発疹チフス以下いろいろな病気の名前が書いてございまするが、これらの疾病に対しまするワクチン、血清類等を政府が需要見込みの最小限度を買上げておきまして、緊急の場合に間に合せよう、こういう経費でございます。そこの摘要欄に書いてありまする痘苗までは前年も買上げの対象になつておりましたが、そのあとの瓦斯壊疽、ワイル病、破傷風、黄熱、これはいずれも本年度の新規の買上げ対象であります。